SDA鹿児島キリスト教会は、聖書主義に立つキリスト教・プロテスタントの教会です。

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2021/05/06(木) イベント

十日間の祈り【一日目】標準を合わせる

「下手な鉄砲も数撃ちゃ当たる」とはよく知られたことわざだが、これは祈りに応用できる言葉ではない。祈りとは、創造主の確実性と忠実さを反映するものであり、「百の事柄を祈ってみて一つ叶えられればラッキー」という博打ではないのだ。信仰者の祈りは、照準の合ったものでなければならない。


 ルカ一一章で、キリストは祈りを扉を叩くことになぞらえた。譬の中で描かれているパンを求める男の姿は、読者に、祈りにおける成功の秘訣を二つ示しているように思われる。第一は、男が求めるべきもを求め続けたこと。第二は、叩くべき扉を叩き続けたこと。これは両方とも、祈りの照準に関する教訓だ。


 まず第一に、男の求めはパンに定まっていた。願いは何度も断られたが、彼は要求する対象を変えていない。彼の照準は初めからがパンに合っていて、いくつかの物を闇雲に求めたり、願うものをコロコロと変えることもしなかった。もし、彼が別の何かを求めていたら、いくら真剣に粘り強く願ったとしても、すべては徒労に終わっていただろう。

 第二に、男は叩くべき扉を知っていて、そこを叩き続きた。違う家の扉は叩かず、空き家の扉を試しに叩いたりしなかったのは言うまでもない。

 祈りの照準を合わせることはとても大切だ。「何を祈るか」と言い換えても良い。この照準がずれたままでは、私たちの祈りは、いつまでも当たらない下手な鉄砲で終わるかもしれない。パウロが言った「空を打つような拳闘」は避けなければならない。


何を祈るか

 私たちは日頃、何を祈っているだろうか。家族の健康、仕事の祝福、食事を作ってくれた人への感謝、救霊の進展。どれも大切な事柄には違いないが、もし私たちの祈りがこのような事柄に終止しているのなら、それは照準が外れっぱなしの祈りだと言わざるを得ない。


「真の敬虔が私たちのうちにリバイバルされることは、すべての必要の中で最大の、最も急を要することです。これを求めることが、私たちの第一にしなければならないことです」『真のリバイバル』一〇ページ。


 主の霊感ははっきりと、クリスチャンが捧げる祈りの照準は「リバイバル」であると教えている。そればかりか、リバイバルを求める祈りは、神の民によって無視されてきたので、急を要するのだと訴える。結論を先に言うことになるが、リバイバルを求める祈りとは、百ある祈りの一つでない。これは、私たち――再臨の切迫を信じるアドベンチスト――が祈る理由そのものと言えるほどに重大だ。


リバイバル=救霊という誤解

 リバイバルとは何か。リバイバルについての最大の誤解は、リバイバル=救霊という図式だと思う。リバイバルとは、短期間に三千人のバプテスマ決心者が与えられることを意味しない。誤解のないように言っておくが、リバイバルに救霊が伴わないということではない。確かに、真のリバイバルは多くの改宗者を生み出す。ただ、それはリバイバルの副産物であって本質ではない。


 先の引用を読み返してほしい。リバイバルがどこで、誰に起こるかが分かるはずだ。「私たちのうちに」とある。これは教会を指す言葉であり、既に教会に連なっている信仰者たちに起こる何かだ。そう。リバイバルとは一義的に、教会内での出来事なのである。


 このことは、聖書のあちこちで強調されたきた。リバイバルを想起させる聖句、例えば詩篇には「再びわたしたちに命を得させ  あなたの民があなたによって  喜び祝うようにしてくださらないのですか」とある(八五。六)。このように、信仰者たちの悔い改めと信仰復興、それに伴う生活の大改革を示しているのが分かるだろう。

 熱い祈りもそれ自体では十分ではない。照準を合わせて、具体的に、はっきりと、主の計画であるリバイバルを祈り求めたい。


神に対する愛の回復

 では、リバイバルとは結局何か。必要最低限の言葉で定義するなら、それは「後退した霊的状況の劇的回復」であり、つまるところ「神に対する愛の回復」である。


 「あなたはイエス・キリストを愛しているか」。もし正面を切ってこの問に答えられないのなら、もし公に「はい」と口にしながら、自分の心にいくばかのこそばゆさを感じるのであれば、あなたの霊性は後退した状態にあると断言できる。そういう人の信仰は、劇的な回復を必要としている。決して大袈裟ではない。ローマには次のようにある。「あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです。この霊によってわたしたちは、『アッバ、父よ』と呼ぶのです」(八・一五)

 ここで「呼ぶ」と訳されている言葉は、「叫ぶ」の意味を持つ。「アッパ」とは単に親密さを表す言葉ではなく、喉から出る浅い呼びかけでもない。腹の底から――存在の深みから、と言う方が的確かもしれない――湧き上がる根源的な叫びである。


 この叫びに形式的な上品さはかけらもない。そこにあるのは、情熱のほとばしり、完全な明け渡し。すなわち、イエス・キリストへの常軌を逸した――狂信とは違う――愛なのだ。やろうと思ってできるものではない。アッパ!これは、個人的リバイバルがもたらす満たしだけが可能にする叫びだ。私たちは、これほど直接的なキリストとの関係を体験しているだろうか。このような信仰生活が可能であることを知っていただろうか。


リバイバルを求める

 「個人的リバイバル」と書いたのには理由がある。リバイバルを神への愛の回復と定義するなら、それは性質上、個人的な経験だ。事実、このような経験は現在も散見されるが、それはちらほらであり、教会全体や地域全体を変革するには至っていない。


 しかし同時に、聖書はこのような体験が同時多発的に起こると預言している。それはまず数人から始まり、飛び火して教会内を席巻するようになる。教会が罪の自覚に目覚め、服従が新たにされる。そのうねりは、福音を知らない人たちをも巻き込んでいくだろう。これこそが、後の雨とも呼ばれる終末のリバイバルである。


 真のリバイバルを願う人は皆、自分の個人的リバイバルと教会のリバイバルを求める。神への愛の不完全さを認め、神を完全に愛したいと祈り、そのための満たしを嘆願し続ける。私たちが合わせる祈りの照準とは、リバイバルをおいて他にない。