十日間の祈り【三日目】拒絶という求め
「そこで、わたしは言っておく。求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる」(ルカ一一・九)。
誤解を恐れずに言うが、この聖句ほど、教会の信仰をくじいてきた言葉はないように思う。更に言えば――元凶は神ではなく人の解釈にあるのだが――この聖句によって、祈りに対する理解は大きく歪められてきた。
求める=さがす
もしあなたが先の聖句から、ただ求めれば神が与えて下さるような印象を受けるなら、それは危うい。多くのクリスチャンが祈りに失望してきたのは、その誤解ゆえなのだ。そういう人は「私は求めてきたのに与えられなかった」と言って動揺し、「祈りの答えは、どうせ神の気まぐれでやってくる」という諦めに支配されかねない。誰にでも心当たりがあるはずだ。
キリストは、「求めなさい」という言葉の意図を、表現を変えることで示した。「求める」とは、探すことであり、叩くことを意味する(ルカ一一章)。それは、感情的な高揚によるものではない。突然その気になり、しばらく試してすぐに飽き、次の瞬間には立ち去ってしまう態度とは違う。そこには「いいえ、祝福してくれるまでは離しません」というヤコブの覚悟と緊急性がある(創世記三二章)。
このような緊急性の中でリバイバルを祈り求めることは、終末を生きる教会にだけ与えれる特権であることを、ここに付け加えたい。
パンを得るまで
ある神学者は更に進んで、リバイバルの求めに「拒絶」という必要条件を見出した。
「真の求めには緊急性がある。返答をもらうまでは満足しないという拒絶がある。たたくという行為が入ってくるのはここである。単に遠くから叫んでいるのではなく、進み行き、だんだん近づき、そしてついには、いわゆる扉をたたくのである」(『栄えに満ちた喜び』三三一ページ)。
せっかく祈っても、部分的な答えだけで自分を満足させてしまうことがある。これは忍耐のない信仰者が陥りがちな祈りの誘惑となる。
しかし、主の約束に照準を合わせる人は、そのような誘惑を拒絶し嘆願し続ける。主ご自身がパンを求めよと命じられたのなら、おにぎりで満足するべきではない。
決して、祈りに対する部分的な応えを拒絶せよと言っているわけではない。神からくるものは、何でも感謝して受けるべきだ。ここで言う拒絶とは、満足という誘惑に対するものを指す。「約束の御霊を受けるまでは変えないし、やめません」という断固たる覚悟。これが祈りにおける拒絶である。
イエス・キリストのみ名によってリバイバルを求め、探し、たたく祝福に生きたいと願う。それは今始めよう。
「教会に降るみ霊の降下は将来の出来事だと期待されているが、今それを受けることこそ教会の特権なのである。聖霊の降下を求めよう。それを受けると信じよう。われわれはそれを受けねばならない。天はそれを与えようと待ちわびているのだから」(『伝道』英文七〇一ページ)。