SDA鹿児島キリスト教会は、聖書主義に立つキリスト教・プロテスタントの教会です。

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2021/05/09(日) イベント

十日間の祈り【四日目】キリストの必要

『キリストへの道』~キリストの必要~より抜粋


 初め、人は優れた能力と調和の取れた精神を与えられていました。彼はまた人として完全で神と調和し、思想も純潔で、清い目的をもっていました。けれども、神に背いたためその能力は悪に向けられ、愛は利己心と変わってしまいました。罪のため人の性質はすっかり弱められて、自分の力では悪の勢力と戦うことができなくなりました。

 こうして悪魔のとりことなってしまったのですから、もし、神が特別に救ってくださらなかったならば、いつまでもそのままの状態でいたことでしょう。悪魔は、人類を創造なさった神のご計画を妨害し、この世を悲しみと破壊で満たそうと思いました。そして、こうした災いはみな神が人類を創造された結果であると言おうとしたのです。…


 私たちは、自分の力で1度沈んだ罪の淵から逃れることはできません。また、私たちの悪い心を変えることもできないのです。「だれが汚れたもののうちから清いものを出すことができようか、ひとりもない」(ヨブ14:4)、「肉の思いは神に敵するからである。すなわち、それは神の律法に従わず、否、従い得ないのである」(ローマ8:7)とあります。教育、教養、意志の力、人間の努力などいずれも、それぞれ大切な役割を持ってはいますが、心を新たにする能力は全くないのです。

 もちろん、私たちの行動にただ外面的な正しさは与えるかも知れませんが、心を変えることもできなければ、生活の源泉を清めることもできないのです。天よりの新しい生命がその人の内部に働かなければ、人は罪より清められることはできません。この力というのはキリストです。キリストの恵みのみが人の力なき魂を生きかえらせて、これを神と清きに導くことができるのです。


 救い主も「だれでも新しく生まれなければ」と言われました。すなわち、新しい生涯を送るための新しい心、新しい希望、目的、動機などが与えられなければ、「神の国を見ることはできない」(ヨハネ3:3)のです。人は、生まれながらに持っている良いところをのばせばよいという考えは恐ろしい誤りです。聖書には、「生まれながらの人は、神の御霊の賜物を受けいれない。それは彼には愚かなものだからである。また、御霊によって判断されるべきであるから、彼はそれを理解することができない」(Ⅰコリント2:14)、「あなたがたは新しく生まれなければならないと、わたしが言ったからとて、不思議に思うには及ばない」(ヨハネ3:7)とあります。

 また、キリストについては「この言に命があった。そしてこの命は人の光であった」(ヨハネ1:4)、「この人による以外に救いはない。わたしたちを救いうる名は、これを別にしては天下のだれにも与えられていないからである」(使徒行伝4:12)としるされています。…


 神は、死よりも強い愛をもって、地上の子らに思いをかけておいでになります。神がひとり子をお与えになったということは、全天をそそぎだして、一つの賜物として与えられたということなのです。救い主の生涯、死、その執り成し、天使の奉仕、聖霊の懇願これらいっさいのものを通じて働いておいでになる父なる神と、天の住民たちの絶えざる関心などが、ことごとく人の救いのために力をそえているのです。私たちのために払われた驚くほどの犠牲を静かにめい想してみましょう。

 ひとたび失われたものを呼びかえし、父なる神の家に連れもどすためには、天はあらゆる努力を惜しまないことを感謝いたしましょう。これにまさる動機や力ある方法は、他ではどこにも見いだすことはできません。正しい行為に対する大いなる報酬、天上の喜び、天の使との交わり、神のみ子の愛との交わり、また永遠にわたって私たちのあらゆる能力がのばされ、高められていくことなどは、私たちの創造主、あがない主に心から愛の奉仕をさせずにはおかぬ刺激であり、奨励ではないでしょうか。…