十日間の祈り【五日目】悔い改め
「真のリバイバルにおいては、まずクリスチャンが深い罪の自覚に導かれる。…純粋のリバイバルにはいつも深い罪の自覚が伴うのである」
(『リバイバルの鍵』一五ページ)。
ヨエルが預言したリバイバルは、輝かしい希望となって、その実現を求めてひざまずく人たちの祈りを照らしている。しかし、ヨエルがその直前に――しかも複数回に渡って――痛みを伴う悔い改めを命じていることを見逃してはならない。「シオンで角笛を吹き/断食を布告し、聖会を召集せよ。民を呼び集め、会衆を聖別し/長老を集合させよ。幼子、乳飲み子を呼び集め/花婿を控えの間から/花嫁を祝いの部屋から呼び出せ」(二・一五、一六)。
ここで悔い改めを必要としているのは誰か。それはイエスラエルであって異邦の民ではない。心からの悔い改めんは、先延ばしにされてきた。老若男女すべて、結婚式を控えた花嫁でさえ、この緊急の命令から漏れることはない。
終末時代にあって、断食による悔い改めを命じられいているのは誰か。それは第一に、残りの民を自覚するアドベンチストである。リバイバルを約束された私たちは、真の悔い改めに招かれているのだ。
「これ(悔い改め)がなされないと、すべての努力は無効になります。天からみ使いが降りてきて彼らに語っても、その言葉は冷たい死人の耳に語っているように、何の役にも立たないでしょう」(『真のリバイバル』一七ページ)
心を耕す
これだけ重大な事柄であるにも関わらず、預言の霊は「悔い改めの意味を本当にわかっていない人が多くあります」と指摘する(『希望への光』一九四〇ページ)。理屈では罪人であると理解していても、存在の根源が突き動かされるような経験的自覚を持つ人は少ない。自分は罪人であると言うことと、魂を砕かれることはまるで違う。単に悔い改めようと思っても、それは起こらない。真の悔い改めを可能にするのは、聖霊の迫りだけである。
しかしそれでも、人にはするべき分がある。神が悔い改めさせて下さるのをただボーッと待つのは、神の計画ではない。聖書は、リバイバルを求める心に次のように呼びかける。「新しい土地を耕せ。主を求める時が来た。ついに主が訪れて/恵みの雨を注いでくださるように」(ホセア一〇・一二)。
「新しい土地」とは休閑地を意味する。農家は、荒れて堅くなった土地に命の種を根付かせるため、丁寧に、時に大胆に土地を整備する。くわを一振りして必要な作業がすべて終わることは決してない。収穫を阻害するものは、一つ一つ徹底的に取り除かれる。「私の罪を赦して下さい」などという大雑把なものは悔い改めではない。詩篇記者は、「神よ、わたしを究め/わたしの心を知ってください」(一三九・二三)と願い、自覚なく犯した罪が、一つ残らず示されるまでは止めようとしなかった。
「主が弱っている教会と、悔い改めていない教会員に聖霊を注ぐことがおできになるように、神の民がすべての妨げを取り除くことをサタンは最も恐れています」(『真のリバイバル』一四ページ)。
キリスト中心へ
心に巣食う罪を洗い出すことは私たちの責任だが、それだけで悔い改めることはできない。悔い改めとは「罪を悲しむことと罪を離れること」を意味する。罪を数えるこは、罪の「結果」に対する悲しみを生むが、罪そのものに対する悲しみを生まない。それは人の心を悔い改めに備えはするが、その完成は、霊の導きと迫りを必要とする。「神はイスラエルを悔い改めさせ、その罪を赦すために、この方を導き手とし、救い主として、御自分の右に上げられました」(使徒五・三一)。
罪の悲しみを伴う真の悔い改めは、「この方」である十字架のキリストとの出会いによってのみ起こる。それは神の賜物であり、人の努力が作り上げる精神状態ではない。
悔い改めは、キリストを見上げることだ。悔い改める過程において、心を探り、罪を数え上げることを欠いてはいけないが、それは悔い改めの中心ではない。聖書と祈りによってキリストに近づかなければ、一〇の罪を見つけながらも、同時に一〇の言い訳を述べている自分を見るだろう。そういう人は、悔い改めた気になるが、それはただの後悔である。
十字架の愛だけが、人を真の悔い改めに導く。私たちは、十字架のキリストを見上げ、心を探る選択という意志によって、そこに近づくことができる。そういう意味で、悔い改めとは、キリスト中心主義への移行作業だと言える。こうしてキリストに中心を陣取っていただくなら、その人は赦され、完全に清められるのだ。
「神よ、わたしを憐れんでください/御慈しみをもって。深い御憐れみをもって/背きの罪をぬぐってください。 わたしの咎をことごとく洗い/罪から清めてください」(詩篇五一・三~四)。