十日間の祈り【六日目】転びやすい場所
「神に喜んでいただくために、従順という方法を用いることには関心を持たず、ただ祝福を祈るだけの人は怠惰であると言いたい。私はクリスチャン生活全般に当てはまる一般的な声明を打ち出してきた。クリスチャン生活において、自分の従順と責任を全く棚上げにして、ただ願い事だけをしても無駄である」
(『栄えに満ちた喜び』三八八ページ)。
旧約聖書と新約聖書には約四〇〇年の隔たりがある。これほどの長期間に及んだ神の沈黙は、イエスラエルが旧約最後の預言者マラキの警告を拒むところから始まった。
旧約における神からの最後通告。それは什一と諸献金についてだった。人々は、財産の管理に関する主の計画を軽んじて従順を拒み、それに続く霊的後退は著しいものとななった。
リバイバルの祝福を妨げる罪。聖書は、その典型を二つ指摘しているように思う。第一は、「什一と諸献金」について。第二は「安息日」についてだ。
安息日と献金制度
「口でイエスは主であると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われるからです」(ローマ一〇・九)。
救いの基盤は、イエス・キリストを「主」とすること。すなわち、神の「主権」を受け入れるところにある。それは、すべては神によって創造され、すべては今なお神の所有であると認めることを意味する。
では、人はどのようにして神の主権を認めるのか。聖書は言う。「わたしの安息日を聖別して、わたしとお前たちとの間のしるしとし、わたしがお前たちの神、主であることを知れ』と」(エゼキエル二〇・二〇)。週の第七日――金曜の日没から土曜の日没まで――の所有権は、神にある。安息日が「主の日」と呼ばれる所以だ。言うまでもなく、安息日を守る行為が人を救うわけではないが、神の主権を認める人は安息日をその「しるし」として守る。
什一と諸献金もまた、人が神の主権を認める方法として制定されている。「土地から取れる収穫量の十分の一は、穀物であれ、果実であれ、主のものである。それは聖なるもので主に属す」(レビ二七・三〇)。安息日と什一が、同じ表現によって命じられていることに気付くだろうか。これは決して偶然ではない。神はこれら二つの制度を、私たちの前に並べて示されている。
安息日と献金制度は、主の主権に直接関わるものだ。安息日を守り、什一と諸献金によって神の主権を認める時、神はその従順を直接的な礼拝行為として喜ばれる。
行い=心からの従順
時代に関わらず、これらの制度は、神の民の中で軽んじられてきた。その度に霊的後退がはびこり、神はリバイバルの必要を訴える指導者を立てられ、安息日と献金に対する民の罪を責めた。ヒゼキヤのリバイバルも、ネヘミヤのリバイバルも同様の流れをみることができる。
私たちの神への姿勢、謙遜や従順という尊い品性は、安息日と献金制度によって試される。そしてここが、神の民の転びやすい場所となったのである。
「私たちは、信仰については多くを聞きますが、行いについてもっと多く聞く必要があります。多くの人々は、容易で、くみしやすく、十字架のない宗教を生きることによって、自分自身の魂を欺いています。しかし、イエスは、「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」と言われます」(『真のリバイバル』六八ページ)。
これは、行い中心の宗教を肯定する言葉ではない。ここで言われる「行い」とは、「従順」であり、外見的宗教とは真逆の、結果を伴う心からの敬虔を意味する。
「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである」(マタイ七・二一)。
リバイバルは神の主権による
安息日や献金制度を軽んじる人は、神の主権を侵してしまっている。リバイバルが神の主権によってのみ与えられることを覚える時、リバイバルを阻む典型的な二つの罪が、自分事であると気付かされる。
神は不従順な人をも変わらずに愛して下さる。しかし、神が不従順な人と共に、十分に働くことができないのもまた事実だ。第一に神の主権を認め、その主権によるリバイバルを経験する者となりたい。そのためにも、主の主権に対する私の理解と姿勢を、謙遜な思いで、聖霊に探っていただく必要がある。
「自分の実際の必要や予想以上の必要を満たしてから、収入の残りの中から神にささげてはならない。一部を消費しないうちに、神がご自分の物として指示された物を取り分けるべきである 」(『祝福に満ちた生活』九五ページ)。