SDA鹿児島キリスト教会は、聖書主義に立つキリスト教・プロテスタントの教会です。

ニュース&トピックス

2021/05/12(水) イベント

十日間の祈り【七日目】殻を破って祈る

「私たちは、祈りが聴かれ、応えられるという天の約束を信じて、成功を求めて祈るように勧 められています。この約束(神が祈りに答えられる)は、教会の結束した祈りが捧げられるという条件で与えられ、その 祈りの応答とし、個人の祈りに対する応答以上の大きな力が期待できるかもしれないのです」

(”Manuscript Releases” vol.9, p303. 英文)。


「集まる祈り」

 個人的な祈り――いわゆる密室の祈り――が大切なのは言うまでもない。誰かが誰かの代わりに食事をすることができないように、祈りによるキリストとの個人的関係を、他人に肩代わりしてもらうことはできない。

 しかしここでは、「集まる祈り」について考えたい。それは――特にリバイバルの文脈において――集まる祈りが必要不可欠な要素として扱われているからに他ならない。


リバイバルと祈祷会

 ヨエルが預言したリバイバルでは、それに先立って、「聖会」が召集された。聖会とは会合であり、神は人々が家からでてきてそこに集まることを命じられた。幼子や花嫁でさえ例外でないことが分かる。神がリバイバルのために命じたのは、特別な祈祷会の開催。そう言っても差し支えはない。人々は「集まる祈り」で涙を持って主に嘆願し、リバイバルは訪れた(三・一七)。


 士師記にも同じ原則を見ることができる。神は、霊的後退に甘んじ、その罪の結果に苦しむイスラエルに、度々リバイバルを与え、救っている。しかし、それは無条件にやってきたわけではなかった。その前にはいつも「集まる祈り」がある。例えば、士師記三章は「イスラエルの人々が主に助けを求めて叫んだので、主はイスラエルの人々のために一人の救助者を立て、彼らを救われた」と記録している(志師三・九)。

 ここに聖会という単語はない。しかしその言葉は、彼らが共同で祈ったことを示唆している。個人ではない。イエスラエルは「人々」として祈った。気の合う数人とだけ祈ったわけでもない。何度も集まり、心を砕いて祈る。神がイスラエルの霊的後退を劇的に回復される時はいつでも、このような祈祷会があったことを忘れてはいけない。


なぜ集まるのか

 個人で祈る方が好き。集まって祈るのは苦手で慣れない。そういう人もいる。もちろん、個人で密度の濃い祈りの時間を持つことは否定されるべきではないし、一人が好きというのも尊重されるべき個性だと思う。


 しかし、主の命じる言葉は、私たちの趣向を常に越えることを覚えよう。「主なる神はこう言われる。わたしは、再びイスラエルの家の願いを受け入れ、彼らのために行う」(エゼキエル三六・三七)。

 「家の願い」とある。そこに集まる祈りがあることは容易に想像できる。主は個人の嘆願にも耳を傾けて下さる。しかし、より偉大な祝福の成就を望むなら、私たちが集まり、一つの家として祈ることは、主の計画なのだ。


 集まって祈るためには、時間を聖別しなければならず、日常の優先順位もその変更を求められる。普段関わりのない人と心を合わせて祈ろうと思えば、そこには互いの努力が必要となる。

 都合が悪い。面倒くさい。気が向かない。それも当然の反応だと思う。ただ、だからこそ聖書は集まる祈りを命じているのだ。人は、集まって祈ることによってしか、砕かれない心の部分を持っているらしい。だからなのか、主の霊感は、個人的な趣向によって教会の集会――原文では特に祈祷会について――を欠席、または軽視することを、高漫な心が生み出す「わがまま」であると警告している(PaM 183.3)。

 優先順位、ルーティン、趣味趣向、性格。集まる祈りは、それぞれが守っている殻を破らなければ実現しない。多少の犠牲もあるだろう。しかし、リバイバルを求める人にとって、従順は喜びであり祝福の始まりとなる。殻を破って集まる祈りのために備える時、主がその穴を広げて恵を注がれるのだ。


 最後に。集まる祈りは、決して重荷となるべきではない。例えば、病気をしてまで出席したり、すべての集会に参加するために高額の交通費を費やす必要はない。リバイバルという特権は、犠牲を求めるかもしれないが、身の破滅を要求しない。その本質は恵である。


「また、はっきり言っておくが、どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる」(マタイ一八・一九)。