SDA鹿児島キリスト教会は、聖書主義に立つキリスト教・プロテスタントの教会です。

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2021/05/15(土) イベント

十日間の祈り【十日目】献身

『キリストへの道』~献身~より抜粋


 神は、「もしあなたがたが一心にわたしを尋ね求めるならば、わたしはあなたがたに会う」(エレミヤ29:13、14)と約束されました。私たちは全身をささげて神に従わねばなりません。さもなければ、私たちを神のみかたちに回復する変化は起こらないのです。私たちは、生まれながら神から遠ざかっています。聖霊は私たちの状態を次のように言っています。「自分の罪過と罪とによって死んでいた者」(エペソ2:1)、「その頭はことごとく病み、その心は全く弱りはてている。足のうらから頭まで完全なところがなく」(イザヤ1:5、6)と。


 私たちは全く「悪魔に捕らえられて」(Ⅱテモテ2:26)彼の思いのままに、しっかりととりこにされているのです。神は私たちをいやし、解放しようと望んでおいでになります。けれどもこれには全き改革、つまり私たちの性質を全く新しくしなければなりませんから、私たちは自己を全く神にささげなければなりません。…


 神の政府は盲従を要求し、不合理な統制を行おうとするものであると、悪魔は私たちに思わせようとしますが、そうではありません。それは知性と良心に訴えるものです。「さあ、われわれは互いに論じよう」(イザヤ1:18)と、創造主は私たち造られた者を招いておられます。神は決して造られた者の意志を強いたりなさいません。真心より、自らよく理解したうえでの服従でなければ、神は受け入れられません。単なる強制的服従は知性や品性の真の発達を妨げるものであって、人を一つの機械人形にしてしまいます。創造主はこのようなことを望まれません。神は創造の極致である人間が最高の発達を遂げることをお望みになります。…


 あなたはキリストに全く服従することは、あまりに大きな犠牲であるとお感じになるでしょうか。「キリストは私に何を与えてくださったか」ということを考えていただきたいのです。神のみ子は、すべてのものを──いのちと愛と苦しみとを──私たちをあがなうためにお与えになりました。こうした大きな愛の対象としてはあまりに無価値な私たちが、自分の心を神にささげないでいられるでしょうか。私たちは、生涯の一瞬一瞬、キリストの恵みをこうむって生きてきました。私たちは、どのような無知と悲惨のどん底から救われたかを自覚していないのです。

 私たちは、自分たちの罪が刺し通したキリストをながめながら、彼の愛と犠牲を侮蔑することができるでしょうか。栄光の主の限りなきへりくだりをよく知りながら戦い、そしておのれを卑しくしなければいのちに入ることができないと言って、つぶやいてよいものでしょうか。


 「悔い改めて心を低くしなければ、神に受け入れられたという保証が得られないのは、どうしたことであろう」と尋ねる高慢な人が多くあります。そういう人はキリストをごらんなさい。彼は罪を犯されなかったばかりでなく、天の王子でしたが人類の身代わりとなって罪人となりました。「とがある者と共に数えられたからである。しかも彼は多くの人の罪を負い、とがある者のためにとりなしをした」(イザヤ53:12)。私たちがすべてをささげると言っても、いったい何をささげるのでしょう。それは、イエスに清められ、その血によって洗われ、彼の無比の愛によって救われるためにささげる罪に汚れた心だけです。それなのに人々は、それを捨てがたいと思っています。私はそういう話を聞き、また書くことさえ恥ずかしいのです。

 神は、私たちが持っていて益になるものは、何一つ捨てるようにとはお求めになりません。何をなさるにも、いつもその子らの幸福を考えておいでになります。自分が今求めているよりはるかに良いものを神は備えておいでになるということを、キリストを選んでいないすべての人が悟られるよう望みます。人は神のみ心に逆らって考え、行動するとき、自分の心に大きな害を及ぼしています。何が最善であるかを知り、造られた者の幸福のために計画しておいでになる神が禁じられる道には、本当の喜びを見いだすことはできません。罪の道は悲惨と滅亡の道です。…


 意志を正しく働かせるならば生活は全く変わってしまいます。意志をキリストに全く服従させることによって、どんな主義よりも力よりも、はるかにまさった力に自分を結びつけることになるのです。そして、天よりの力を得てしっかりと立つことができ、絶えず神に服従することによって新しい生涯、すなわち信仰の生涯を送ることができるようになるのです。